『アイスエイジ』に出てくる男たちは現実感はないし、仮に、実際いたらウザそうだなっていう男が多いけど、的確に女子のツボをつく。ついついキュンキュンしてしまう。腐女子萌えにはあんまりならないような気が・・。きっと各キャラクターが恋愛をしていて、その恋愛の中で女子が言われてみたいと夢想するようなセリフを何度も言うからなんだろう。本屋に行くと「イケメンてんこ盛りマンガ」って書いてあるけど、間違ってない。しかも女子に心地いい、浮ついてない、真剣な目で愛をささやいてくれる男前ばかりだ。

あぁ、やっぱりおもしろい・・。3巻ではのらみみの過去話が。同じく3巻の「パラレル送別会」がいい・・。最後の余韻の残し方やら、キャラの設定やら、雪シーンの表現やらおもしろい。

昨日購入した『のらみみ』おもしろかった。普通にほっこりしつつ笑った。『テヅカ・イズ・デッド』で取り上げられていたキャラの取り扱いかたが興味深かった。キャラがその形状によってタイプ分けされ、その性質は「屋号」と「名前」で示されている。だったら細かい描写なんていらないじゃん!っていう感じを受けた。主人公ののらみみが現在のところ「屋号」=「見習い小僧」で、「名前」=「のらみみ」。そして、周囲から「キャラが弱い」と言われている。絵としてみた場合、作品中では主人公なので読者にインパクトを与えている。でものらみみは「キャラが弱い」キャラなのだ。作品中での「キャラが弱い」は「形状のタイプ」「屋号」「名前」という情報からでは、キャラの性質が伝わってこないということとイコールなようだ。作品中にでてきた「くまタイプ」で屋号は「タヌキじゃないぞ!」名前「くまえもん」。このキャラの場合、タヌキっぽいくまでタヌキって言われたら怒るんだろうな、気にしてるんだろうなというのがすぐ伝わる。むしろ屋号がきめ台詞になっている。作品を外から眺めている、読者から見ると、この「くまえもん」と「のらみみ」どちらが「キャラがたっているか」はまた別の話になってくる。まだ頭の中で整理できてないので、作品のなかのキャラの設定と実際に私たちがみつめるキャラとの差を考えてみなければ。

テヅカ・イズ・デッド』にでてきたものの、未読だった『のらみみ』を購入。そして、昨年、岩岡ヒサエと共に私のマンガランキングに新規参入してきた『沈夫人の料理人』。何故か、1,3巻は持っていたものの、2巻のみ持っていなかったので購入。精神SM料理マンガ。

明日はもんでんあきこの『アイスエイジ』5巻を購入予定。

マンガを読むとき、どこを一番気にしてみているのか。改めて考えてみると私は”どこまで省略した表現で世界を伝えることができているか”ということに注目している気がする。私は”言い過ぎること、説明し過ぎること”にもっとも不快感を覚える。もちろんどこまで説明してほしいかということは人によって感覚が全く異なる。誰かにとっては”足り無さ過ぎ”と感じる程度の説明が私にとっては”言い過ぎ”の場合がある。だが、思うに作品中に読者が頭で補う余白を用意しとけばいいんじゃないかと思う。短い作品でも作品世界の一端さえ示せばいいんじゃないかと思う。もちろんそこから全体像を読者に創造させなければならないけれども。その加減が難しい。ギリギリ全体像が見えそう・・・?ぐらいを作品中に描いて欲しいのだ。この絶妙な感じをを見せてくれる作品に私は感動を感じる。主題や作品世界を直接的に示す作品は、それはそれでいいと思うんだけども、私は「もっとひねってくれよ・・・」とつい感じてしまう。

ま、マンガの好みなんてひとそれぞれだけど。

どこかで見た腐女子の名言。

「ちゃわんが2個あれば萌えられる」

それでこそ、腐女子。個人的に今まで実際に見た最高の萌えシチュは「職員室にて新人男性教諭がイスに逆向きに座り、背もたれに顎をつけ上目づかいで、先輩教諭に教えを請うの図」