少女マンガの中の純愛

以前に山田ユギは作品中で純愛を「距離」と「時間」によって描いていると言うことを書いた。で、純少女マンガではどうなのかということを考えてみた。大体において、最近の少女マンガでは、

  1. 「初めてモノ」初恋、初めての恋人。つまり、何も知らない状態、その恋愛に身を置く、キャラクター事態が純粋な状態である。純粋なキャラクターたちの恋で、純愛。
  2. 「こんなアタシを・・・モノ」上とは異なり、援助交際だのレイプだの、身体的に性的には大人であり、多くは「汚れてしまった」という意識を持つキャラクターが、そのキャラクターを過去ごと受け入れてくれるキャラクターと出会い、「本当の恋」を知る。つまり、いろんな事を知ったキャラクターが純粋に人を愛そうとする。

という2つが主流なようである。少女マンガの中の純愛でももちろん「障害」を乗り越えることで、純愛を表現するわけだが、その「障害」をこの2つは「無知」と「過去の傷」に設定しているわけである。山田ユギの「距離」と「時間」は、もちろん純少女マンガ界でも何度も、描かれている。だが、その分先が見えすぎてしまうところが否めない。(だからこそ、やおいマンガで描くと新鮮味があったのかもしれないが)そのため、純少女マンガでは
もっと困難な「障害」が用意されている。上の2つ以外では、年齢(これは、ペドファイルが問題視されている最近だからこそやも)近親相姦、貧富・・・などなど。昔から常に描かれているテーマもあるが、最近は障害がインフレ化しているように思う。かつて一条ゆかりなどの作家が「愛する」とは何かといったテーマを深く描いてきたが、最近の少女向け(10代まで)の少女マンガではハードルをいくつ越えられるか、そのハードルがどれだけ困難かがひたすらに描かれている。もちろん「愛」の根源を問う作品も多くあると思う。ただ、そういった作品は(最低でも10代後半)20代以上の読者を想定した雑誌に移行しているように感じる。何故、こうなっているのかは、もっと調査、考察してみなければ。