山田ユギの純愛

昨年は純愛モノが大変な流行だった。韓流ドラマに熱狂したマダムから若い娘さんたちから「セカチュー」や「イマアイ」に涙していらしたようだ。さて、少女マンガに目を向けると、やはり、純愛もの『ハチミツとクローバー』が大人気だった。同じく、相変わらずの人気を誇り、昨年は実写映画化もされた『NANA』、これは純愛と呼べるかはわかりませんが・・。ほかにも講談社系の純愛ものも話題になっていた。

やおいものはどうなんだろうか?24年組みの作家達は、結婚や、妊娠といった男女の社会的に保障されているようなものではなく、既成概念にそむいても、世間に理解されずとも貫き通す真実の愛を描くために、少年愛という形をとったと言われている。が、最近のBLはそうでもないように思う。少年と少女の恋物語のように、特に「ゲイ」ということには苦悩せず、「彼と僕」の関係性に悩み、その世界だけで生きているような物語が多い。(ユリイカ1月号で金田淳子氏が書いた”天動説”やおい)そもそもゲイ自体の社会認知がかつてとは異なっているため、もはや少年愛のタブー性が薄れてしまっていることもあるだろうが・・。そんな中で私がBL作品のなかで純愛を描いているなと思うのが山田ユギ氏である。ただし、彼女は「彼と彼が出会って恋をして”これは運命だ!”」みたいな物語は描かない。彼女は純愛を「時間」と「距離」の二つによって示す。山田ユギ氏の作品には、

「幼い頃(思春期前)からの知り合い→様々な理由によって一方にとってもう一方がかけがえの無い存在になる。例:親の愛を得られないなか唯一の理解者(ある種の初恋)→物理的な距離ができる→長いこと時間が流れる→大人になって再会→昔からの想いは消えないままだった」

というような作品が多い。これにさらに年齢差が加わることもある。ただ「運命だから」という理由だけでは「純愛」を成り立たせることはできないと考えているのだろう。というか、これは「純愛」はある種の「刷り込み」によってしか生まれないということになっている。

しかし、考えてみればこの「時間」と「距離」でしか彼女が描くような、「僕と彼」の世界ではない「第3者達」の存在のいるリアリティを持った世界では道具として使うことができないのかもしれない。昼ドラや、韓流ドラマで登場する「身分差」、「実は兄弟」、「病気」はなかなか使いづらい。

「純愛モノ」が流行した影には「現実には純愛を見出せないから」という理由があると言われているが、メロドラマ的な荒唐無稽さを極力退けると「時間」と「距離」が残り、これに色んな味付けをすることで山田ユギ氏はやおい世界で純愛を見せてくれているということか。この味付け(キャラクター、舞台)が山田ユギの最大の魅力なのやもしれない。