東浩紀編『網状言論F改 ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』(青土社)

オタクや萌えをめぐってモメてるなぁという本。

オタクを揶揄するでも、エリート視するでもなく、ちゃんと社会学的な、または精神論的な議論の対象にしましょうよ、という提案が第一目的の様。

永山薫氏のエロマンガに関する項で書かれている「男性オタク達は、犯す側の男にではなく犯されているかわいらしい少女に同化しようとしているにではないか?」という指摘が興味深かった。男性向けエロマンガには疎いのでこの指摘が男性オタクの共感を呼ぶものなのかわからないので、実際どうなのか気になるところだ。これを読んで、腐女子が受、攻どちらに感情移入してやおいを読んでいるのか気になってきた。それとも感情移入せずに受攻セットで関係性を客観的に楽しんでいるのか?以前オタガール向けの投稿雑誌で何度か「男になって男を犯したい」という投稿を見たことがある。腐女子は攻に同化しようとしているんだろうか?言い切れないけども、心のどこかでそういう願望もあるのかもしれないと思う。それならば、『ぱふ』の萌え要素ランキングで「下克上」(下の立場にあるものが攻となるもの。例:上司と部下)が人気なのもなんとなく理解できるような。

<追記2006/1/14>

友人が以前「好きなキャラは受!」と言っていたことを思い出した。好きだから受にするのか、受キャラが好きなのか?どっちだったのかは謎。腐女子たちは好きだからカップリングを創るというより、カップリングが見えた結果そのキャラにハマルという構造が成り立っているんじゃないかとも思う。となれば、やっぱり関係性を客観的に楽しもうとしてるのか・・・?「カップリングはコレだけど、好きなキャラはコレ」という場合も成り立つし、カップリングと感情移入は別物として考えるべきなのか。

となると、九州男児の『課長の恋』における周囲の非ゲイカップルの女性社員、男性社員=腐女子と言えそうやも。